病葉にアイノウタ

過去の話。

“俺”という自覚がいつからあったのか、正確には覚えていない。
俺は“ケヴィン”と呼ばれていたし、いつもどこか混濁したような空気の中に居た。
酒とクスリ、煙った甘ったるい空気と囁き声の渦。

俺のマスターはちょび髭の生えた小太りの男だった。
そして、此処には俺以外にも沢山のロボットがいた。
それらは全て最も人に近い型で、所謂、愛玩用、だった。
マスターが指示する人間の下に赴き、その人間の願望を叶えてやる。
ただそれだけの為の存在だった。

鼻にかかった甘い声を出す女に、抱いてくれと言われて抱いたこともある。
というか、その手の依頼が一番多いらしい。
男に呼び出されてみたら、何だか知らないが抱かれたこともある。
そういった趣味にも俺達ロボットは有用らしい。
実に、オールマイティじゃないか。
それこそ反吐が出るほどに。

俺が“俺”という自覚を得てからというもの、
今まで何でも無かった“仕事”に、酷い嫌悪を覚えはじめた。
生温い温度で撫で付ける掌も、聴覚器官に流し込まれる甘ったるい声も、
全部、全部が、思考回路に百足を這わされているような、酷い嫌悪だった。

「ケヴィン」

マスターが髭の下の唇を歪ませて俺の名前を呼んだ。

「酒を入れてくれないか」

特に仕事が入っていない“俺達”に、カクテルを作らせるのが、
マスターの日課だった。
いつもの通り、マスターお気に入りの配合で作ってやる。
“俺達”の中でも、俺はカクテルを作るのが上手い方だった。
満足そうに酒を飲むマスターの顔を眺めながら、俺は嫌悪感の元凶に気付いた。

こいつが居なければ、良いのではないか?

酷く短絡的な結論だったが、一番手近な突破口であるような気もした。
ドロドロと渦を巻く嫌悪の中で拾い上げたものは、明確な、殺意、だった。


*************


しばらくが経ったある夜。
その日は久しぶりに仕事が入っていない夜だった。
ぼんやりと待機していると、マスターがいつものように、

「酒を入れてくれないか」

と命令してきた。
俺はいつもの通りの配合で酒を混ぜ…、
こっそりと、胸元のポケットから小瓶を取り出した。
中に入っている透明な液体は、とてもよく聞く神経毒らしい。
少し前にクスリ屋だという客を口説き落として手に入れたものだ。
人間は、これで死ぬらしい。
見た限り臭いも無い。
酒の中にこっそりと、それを、混ぜた。

何でもない顔でマスターの前に酒を出すと、
いつものようにマスターは酒を飲みだした。

少し経って、マスターが半ばほど酒が残っていたグラスを落とした。
甲高い破砕音が響いた。
マスターは真っ青な顔で椅子から転げ落ち、床に仰向けに倒れ込んだ。
おかしな音で必死に呼吸するその顔を眺めていると、
マスターは憎々しげな顔でこちらを見上げた。

「…ケ、ヴィン…ッ……お前……」

途切れ途切れに言葉を吐くマスターの方へ回り込み、苦しそうに抑えるその胸部を踏みつけてやる。
マスターの口から空気の塊が吐き出されるような声がした。

「…わ、かっているのか…っ……ロボットが……貴様……ッ」
「…俺は、俺だ。俺はお前が憎い。だから殺す。
人間だってそうだろう?アンタだって散々やってきた事じゃないか?」
「……まさか…ッ……はな、しには…聞いていたが……ッ…自我……」
「ロボットには自我が無いから、何をさせても構わねェってか。人間様のお考え痛み入るぜ。」
「……とんだ……バグだ…ッ…」

呼吸の下で吐き捨てられた言葉を、嘲りながら踏みつけた。

「バグ?人間様にとっちゃ至って普通のことだろう?コレがバグなら、この世の中は失陥まみれだな!」

そう吐き捨てた瞬間、聴覚器官を割るようなけたたましいアラームが部屋中に響き渡った。
いつの間にかマスターの手には、非常用のスイッチが握られていた。
おそらくポケットかなにかにいつも入れていたのだろう。
マスターは途切れ途切れの息の下で、それでも勝ち誇ったように唇を歪めた。

「…貴様なんぞ……廃棄だ…ッ…」

 

それからの事はよく覚えていない。
しばらく苦しむマスターを眺めていたら、酷く乱暴に入ってきた警官達に、
これまた酷く乱暴に押さえつけられて居た。
人間に逆らったロボットは廃棄。
そこに情状酌量なんてありがたい制度は無い。
逆らうものは捨てるだけだ。従順な代わりが、いくらでも作れるのだから。


**************



次に起動したときには、廃棄工場のゴミ箱の底に居た。
何か大事な事を忘れている気もするが、どうやらそれは、意図的に消去されたらしかった。

ぼんやりと辺りを見回していると、「天国はコチラ」と書かれた下品な落書きがちらりと目に入った。

耳障りな金属音が響き渡っている。
そこら中に撒き散らされた“失敗作”の欠片の中で、少しだけ考えた。
罠、ということもあり得る。
ゴミ箱の底で、何かの拍子で再稼働したロボットをさらに完膚なきまでに叩き壊す為の。
きっと人間ならやりかねない話だ。
その人間と大して変わらない思考の自分が言えた話ではないが。
でも、それでも。
此処で緩やかに停止を待つよりも、いかにも建設的な蜘蛛の糸に思えた。

「上見て下見て大間抜けっては良く言うが…賭けるしかない時も有るわな」

意を決してその落書きが指す矢印の先に視線を向けた瞬間、

「ま、待てよ、そこの!」

この場に不似合いな、いかにも不躾な声が響いた。
驚いて振り返ると、くすんだ緑色の短髪のロボットが必死な顔でこちらを見ていた。

「…逃げるんだろ、俺も、連れてってくれよ!」

予想外の言葉に目を見開くと、短髪のロボットは人懐っこそうな顔で、一つ笑った。