雨後にして君を離れ

彼が見た話

遠くにサイレンの音がいくつも聞こえる。
まるでエコーのように重なった音が、重くなる頭を内側から叩く。

「ヨハネ!」

グレッグさんの低い声に導かれて路地裏に転がり込む。
歪んで通り過ぎていくサイレンの音を聞き流しながら、一つ大きく息を吐いた。

「……ヨーくん、大丈夫?」

腕の中から聞こえた声に目を落とすと、碧い瞳が心配そうにこちらを見上げていた。

「ん、大丈夫ッス。……マリアは?怪我、無いッスか?」

そう問うと、マリアは小さく、大丈夫、と頷いた。


エリカ博士の所から逃げ出してから、ろくに眠れた日が無い。
その日の宿を決めて、腰を落ち着けようとすると、いつも狙い澄ましたように政府の追っ手がサイレンを鳴らしてやってくる。
眠れない日が続くのが、こんなに辛いとは。

……夜更かししてた昔の自分を殴ってやりたいッス。

疲れた目を擦っていると、マリアがやはり心配そうな顔でこちらを見上げた。

「……ヨーくん」
「…だーいじょうぶッス。……マリア。マリアも、疲れてるッスよね?少し寝てても良いッスよ。抱えててあげるッスから」
「……ううん」

浮かない顔で首を振るマリアに、悲しい気持ちになる。
こんな顔をさせたくて、逃げ出したんじゃなかったはずなのに。

「ヨハネ坊主」

呆れたようなグレッグさんの声が飛んでくる。

「どう見たって、大丈夫な顔にゃあ見えねェな。お前も、マリアも」
「……ごめんなさい。グレさん」

しょんぼりと、うつむくマリアの頭をグレッグさんが乱暴に撫でる。

「謝る必要なんかねェさ、マリアのせいじゃねぇ。……ただ、少し気になることがある。」

グレッグさんは少し難しい顔でマリアを見つめる。

「……なぁに?」
「……少し、行きたい所がある。ついてきてくれるか?」
「……うん、良いよ?」

頷いたマリアに、グレッグさんは少しバツの悪そうな顔をして、続けた。

「少し、体をいじられるかもしれねぇ。痛い事はさせねェが、少しだけ我慢できるか?」

マリアはその言葉に、少しだけ眉を寄せた後、静かにうなずいた。

「……そうしたら、ゆっくりおやすみ出来るの?」
「たぶんな」
「……じゃあ、平気」
「よし、良い子だ。……ヨハネ」

唐突に声を投げられ、はじかれたようにグレッグさんを見る。

「な、なんッスか?」
「移動するぞ。シャッキリしてるか?」
「へ、平気ッス!」
「よしよし、行くぞ。詳しくは道すがら、だ」

話し終わるか終らないかで、路地裏から駆け出したグレッグさんを慌てて追う。
また背中からサイレンが聞こえた。


「で?どこに行くんッスか?」

上がる息の間で問いかけると、グレッグさんは振り返らずに答えた。

「ロボット博士の所さ」
「ロボットって……何のためにッスか?」

グレッグさんは、少し答え辛そうに間をおいて、答えた。

「……マリアに、エリカが何か仕込んでる可能性がある」

その答えを聞いて、腕の中のマリアが、俺の服を強く握りしめるのを感じた。

「何かって……」
「マリアは生まれた時からエリカの支配下にあった。何か発信機みたいなのがあってもおかしくねぇってことだ。」
「そんなの!」

反論しようとした俺の言葉を遮って、グレッグさんが続ける。

「だから、それを調べてもらおうって話だ」
「……誰にッスか?」

少し不審げに口をとがらせて問うと、グレッグさんは呆れたように笑った。

「昔の知り合いだよ。ロボットに詳しいやつがいてな」
「ふーん、そうッスか……」
「おい、着いたぞ」

唐突に、グレッグさんが足を止めた。
慌ててこちらも足を止めて、目の前の建物を見上げる。

「はー……質素、ッスね」

それが端的な感想だった。
ただの白い壁。適当なドア。適当な窓。
いかにも、出来合いのプランにお任せしました、みたいな、個性の欠片もないような家だった。
グレッグさんも建物を見上げて、そして少し首をかしげた。

「昔は、可愛いもの好きの奴だったんだけどな」

ふと、疑問を覚えて問う。

「あれ、来たこと無かったんッスか?」
「住所が変わったって律儀な手紙を以前にもらったくらいだ。来るのは初めてだが……昔は、こんな家を好くような奴じゃ無かったんだがな」

グレッグさんは腑に落ちなさそうな顔をしたまま、呼び鈴を鳴らした。
2、3度呼び鈴を鳴らすと、ゆっくりとドアが開いた。

「こんな時間に、どちら様?」

不機嫌そうに眉根を寄せた女が、ゆっくりと顔を出した。
少しパサついた金髪が、女の肩を滑り落ちる。
なんか幽霊みたいだな、というのが、最初の印象だった。
スタイルも良いし、顔だって整っている。
シャッキリしていれば相当の美人だということはわかるが、
どうも、覇気が無いというか、うすぼんやりしているというか、憔悴していた、というか。
とにかく、少し変な雰囲気の女の人だな、というのが最初の印象だった。
女は、グレッグさんを認めると、驚いたように目を丸くした。

「グレッグ……?」

信じられないものを見るような顔で、グレッグさんを眺める女に、グレッグさんは苦笑した。

「貴方、生きてたの?」
「ご挨拶だな。ピンピンしてら」
「だったら、手紙に返事くらい寄越しなさいよ」
「住所変更の手紙だろ?なんて返したらいいのかわからんさ」

軽く返したグレッグさんに、女は呆れたように笑った。 「変わらないわね、そういうところ」

そんな女に、グレッグさんは少し心配そうに眉根を寄せて、聞き返した。

「……お前は、どうしたんだ。ずいぶん変わったようじゃないか、アリウム」

アリウム、と呼ばれた女は、痛いところを突かれたような顔を一瞬して、すぐに目を伏せた。
それきり口を噤んでしまったアリウムに、グレッグさんは慌てたように話題を変えた。

「まだ、あの爺さんの研究所に居るのか?」
「いいえ。……少し前まで、ロボット管理会社に居たわ」
「へぇ、ずいぶん出世したんだな?あそこ、女はそうそう採らねぇって……」
「でも、辞めたわ」

冷たい口調で吐き捨てるように、アリウムは呟いた。

「……お前の歳じゃ、隠居はまだ早いんじゃないか?」
「……もう、辞めたの。ロボットには関わりたくないわ」

硬い声でそう告げるアリウムに、グレッグさんは困ったように息を吐いた。

「……なんだ、本当に、変わったな。何があった?」
「……女のプライベートを詮索するなんて野暮よ、グレッグ」
「男にでも振られたのか?」
「……まあ、そんなところね」

アリウムは呆れたように首を振ると、さて、と顔を上げた。

「本題は何?わざわざ昔話をしに来たわけじゃないでしょう?……そんな子達まで連れて」

鋭い視線をいきなり投げかけられて、思わずぐっと息を詰める。

「そっちの坊やはどうでもいいけど、そのお嬢ちゃんはなんなの?」

不快そうにアリウムの眉が寄せられる。

「なんなのって……なんッスか」

不躾な質問に少々気分を害されながらも問い返すと、アリウムも不機嫌を隠さずに答えた。

「大方は普通の子供だけれど、内部から変な機械の音がするわ。グレッグ、貴方いつからそんな悪趣味なものに手をだすようになったの?」
「随分だな。色々事情ってもんがあるんだよ」
「事情、ね」
「そのお嬢ちゃんのことでお前に頼みがある」

そう切り出したグレッグさんに、アリウムは呆れたように首を振った。

「厄介事って訳?」
「まあ、そうだな」

アリウムは少し考え込んだ後、小さく息を吐いた。

「……中に入ってちょうだい。立ち話もなんだし」
「ああ、すまないな」
「良いわよ。ろくなおもてなしはできないけどね」

不承不承といった体でアリウムは部屋の中へこちらを迎え入れた。


************



彼女が見た話


「なるほどね」

部屋の中も、外観と同じく、生活感のない、あっさりした部屋だった。
必要最低限の家具しか見当たらない。
アリウムはテーブルにもたれると、こちらを気怠そうに見つめた。
グレッグさんの口からざっくりと語られたこれまでの経緯に、アリウムは一つ相槌を打つと、じっとマリアを見つめた。
視線に気圧されたマリアがさっと俺の後ろに隠れる。
アリウムは少し目を細めると、グレッグさんの方に向き直った。


「……グレッグ、まあ……貴方の言うことは本当みたいね」
「ああ、お前なら信じてくれると思ったよ」
「善良な一般市民なら、信じない話よね」
「いやいや、お前さんは善良さ」
「あら、ありがとう」

アリウムは髪を軽くかき上げると、表情を変えずにこちらを見た。

「話を聞く限り、ずっと逃げ通しでしょう?そっちの坊やもお疲れみたいだし、少し休んだら?」
「……気持ちは嬉しいッスけど……」

追手が来たらマズイし、と言いかけた矢先、アリウムはやや鼻で笑うように微笑んだ。

「此処は平気よ」
「へ?」
「覗き見されるのなんてごめんだもの、うちは対策してあるわよ」
「対策?ッスか?」
「既定の回線を通さない電波は全部シャットアウトしてあるの」
「それはー、つまり?」

上手く情報を整理出来ないまま問うと、アリウムは呆れたように息を吐いた。

「……まぁ、つまり、ここに居ればしばらくは追手が来ないってことよ。二階の部屋なら使っていいわ。少し休んだらどう?」

その言葉は、福音のように響いた。
たまりにたまった疲れも一瞬忘れて、小さく跳ねる。

「うわぁ!助かるッス!えーと、アリウム、博士?ありがとうッス!マリア、早速行ってみるッス!」
「う、うん!」

マリアをひょいっと抱え上げて、二階への階段に向かう。
ああ、今日は久しぶりによく眠れそうだ!



***********


青年が駆け上っていった二階への階段を眺める。
気が付くと、残された彼も唖然として階段を眺めていた。
呆れたように一つ笑い、彼の方に向き直る。
苦笑交じりに

「ねえ、あの子、馬鹿でしょ」

と問うと、彼も呆れたように笑い、

「ああ、馬鹿だな」

と答えた。

「だがな、馬鹿は馬鹿でも、あいつは幸いにして良い方の馬鹿だ」
「フォローになってないわよ」
「本当の事さ」

さて、と、私が首を振ると、彼も一つ咳払いをした。

「グレッグ、とりあえず、お嬢ちゃんの方を連れてきてちょうだい。色々調べてみないと」
「ああ、分かった」

ゆっくりと上階に向かった彼は、すぐに少女の手を引いて降りてきた。
あまりにもあっさりと彼女だけを連れてきた彼に、少し驚いて問う。

「随分早いわね、ヨハネ君は駄々こねなかったの?」
「寝てた」

頭を掻きながら、彼は呆れたように呟いた。

「……随分、早いわね?」
「あいつは昔から、寝るとなったらおやすみ三秒だ」

呆れた調子で言葉を交わす私たちを交互に見て、彼女が慌てて声を上げた。

「よ、ヨーくん、疲れてたの。仕方ないよ、グレさん」

彼女の精一杯のフォローに、困ったように彼は顔をしかめた。

「まあ……そうだな。久しぶりの布団だ。寝かしておいてやるさ」
「それじゃ、こっちに来てちょうだい、ええと……マリア?」
「はい」

名前を呼ぶと、彼女はおずおずと歩み出てきた。
碧い眼が不安げに揺れている。

「……そんなに怖がらなくていいわ。ちょっとスキャンするだけよ」
「マリアはちっとばかし人見知りなんだ」
「みたいね。なんだかお菓子の家の魔女になった気分よ」
「ご、ごめんなさい」

慌てて謝る彼女に、冗談よ、と小さく笑った。
奥の戸棚から仕舞い込んでいた簡易スキャナーを取り出して、彼女の体の上を滑らせる。
いくつかの小さな電子音を発するスキャナーを眺めながら、眉をしかめる。
この子は、思っていたよりも複雑な構成で出来ている。
吐き気がするほど悪趣味な研究開発の結果の、機械と人体の産物。

「……この子を作ったのは……エリカ博士、だったわよね」
「ああ」

答えた彼の顔を一度見て、再びスキャナーに視線を落とす。

「最低に拍車が掛かってるわね、あの人」
「……ああ」

苦虫をかみつぶしたような顔で言葉を交わす私たちを、彼女は不安そうに見上げた。

「……あの……」
「ああ、ごめんなさい。……簡単に、言うわね」

一つ咳払いをして、彼と、彼女に告げる。

「一つ強い発信システムが有るわね。向こうから操作は出来ないだろうけど、映像音声現在位置までバッチリ発信されてるわ」
「ああ、道理で休もうって時に追手が来るわけだ」

彼もその可能性に思い至っていたのか、納得したように頷いた。

「しかも、成長の初期から組み込まれてるから、外すのは困難ね。無理に外そうとすると、機能停止……ええと、死ぬ、わね」

言葉を変えながら端的に伝えると、彼女が息をのんだ。

「……どうしたらいい?」

彼が眉を寄せて問う。

「……システムを外したいって言うなら、手段は無いわ。私には何もできない」
「……それ以外なら……?」

難しい顔をしたままの彼を、じっと見る。

「……その場しのぎにしかならない提案しかできないわ。それだって、彼女にも危険がある。良い賭けとは言えないわね」
「……そうか」

彼はあきらめたように大きく一つ息を吐いて、彼女を見た。
そして、彼女に優しく、もう寝るようにと勧めた。

「……グレさんは?」
「もう少し、アリウムと話してからにするさ。マリアはヨハネ坊主の所に行ってろ。お前も疲れてるだろ?」
「……ん」

彼女は少し不本意そうにうなずいた後、二階への階段を上って行った。
小さな足音が上階に消えてから、彼は私の方へ向き直った。


**********

あの子が考えた事


すっきりしない気持ちのまま、階段を上った。
階下では、ぼそぼそと大人二人が話している声が聞こえる。

……何の話をしているんだろう……。

難しい話はよくわからなかったけれど、自分の身体の中に、良くないものがあるのはわかった。
そのせいで、あの優しい人たちが辛い目に遭っているというのも。

……無理なのかな……。

胸のあたりをぎゅっと掴んで考え込む。
音を立てないようにゆっくりと寝室に入ると、2つ置かれたうちの右側のベッドの上で、ヨーくんが寝息を立てていた。
ぐっすり、幸せそうに寝ている。
大丈夫だって言ってたけど、やっぱり疲れてたんだ。
ヨーくんの“大丈夫”は信用しちゃダメってグレさんが言ってたけど、多分ホントだ。
幸せそうな寝顔を見ていると、胸のあたりが苦しくなった。
守ってもらってばかりだった。
貰ってばかりだった。
だから今度は。
自分に出来ることがあるなら、怖がる理由なんて何もない。
布団にもぐりこんで、グレさんが戻って来るのを待つ。
グレさんはああ見えてとっても心配性だから、相談したら止められちゃう。
内緒でアリウムさんにお話ししなきゃ。
ぎゅっと布団を掴んで、決意をした。




************




彼女が見た話

もう遅いから、と、グレッグを部屋にやった後、
しばらくぼうっとテーブルに肘をついてコーヒーを飲んでいると、きぃ、と扉が開いた。
驚いて扉の方に目をやると、碧色の瞳が、不安そうにこちらを見ていた。

「……なぁに?」

一つ声をかけると、彼女は少し怯えたように視線を落とした後、決意したようにこちらに近寄ってきた。

「あ、アリウム、さん」

たどたどしく名前を呼ばれる。
彼女は、小さな声で、しかし、しっかりと告げた。

「マリアの、身体から、良くないもの、取って、ください」

驚いて思わず彼女に問い返す。

「聞いてなかったの?あなたの身体は、発信システムと密接に絡み合ってるの。下手にいじったら、あなた、死ぬのよ?」

彼女は、一瞬息をのんだ様だったが、すぐにキッとこちらに視線を戻す。

「でも、アリウムさんなら、出来るんでしょ?」
「確証はないわ」
「でも、出来るかもしれないんでしょ?」

確かに、出来る“かも”知れない。
ただ、成功するという確証は一切ない。酷く楽観的に考えて五分五分程度だ。
たったそれだけの確立に、彼女は賭けようというのか。

「……どうして?」

思わずそう問うと、彼女は一瞬目を丸くして、その後、悲しそうに目を伏せた。

「ヨーくんとグレさん、眠れないの。マリアには、寝ても良いよって言うけど、ヨーくんとグレさんは眠れないの。眠ろうとすると、怖い人が追いかけてくるから」
「…………」
「マリア、ヨーくんとグレさんが好き。胸の所が、あったかくなるから。だから、ヨーくんとグレさんが、辛いのは、嫌」
「…………」
「でも、マリアに出来る事って、無いの。マリア、何も出来ないの。ヨーくんが辛そうでも、グレさんが苦しそうでも、マリア、何も出来ないの。
お荷物だって背負えないし、抱っこして走って あげることも出来ないの。」
「…………」
「だから、マリアの中から良くないもの取っちゃって、それで、ゆっくりお休みできるなら、マリア、なんだって怖くないの」

今にも泣きだしそうな顔で、彼女はそう告げた。
酷く純粋な話だ。
ただ好意だけの、確率も危険も理論も、感情すら超えた、ある種馬鹿げた決意。
自分が失ってしまったそれに、ふわりとめまいを覚えた。
同時に、ひどく羨ましい気持ちになった。

「……良いわ」

根負けしたように呟くと、彼女が、やっと嬉しそうに笑った。

「ただし、発信システムの全機能は停止出来ないわ。グレッグの話を聞く限り、あなたのシステムに暴力行為と認識されると、あなたの全機能が停止する恐れがある」
「……うん」
「……精々、目隠し程度にしかならないだろうけど……電波を誤魔化す機能を持つ機械を入れるわ。ただ、電波の齟齬であなたに異常が出るかもしれない」
「だ、大丈夫。がんばる」

神妙そうにうなずいた彼女に、思わず吹き出す。

「頑張ってどうなる問題じゃないのよ」
「う、で、でも、マリア、頑張る」

小さく息を吐いて、彼女に告げる。

「グレッグを呼んできてちょうだい」
「え?」

不思議そうな顔をした彼女に、小さく微笑んだ。

「未成年の手術をする際には、保護者に許可を取らないとね」



*******


「分かった。マリアが決めたんだったら、文句は言わんさ」

彼は神妙そうな顔でそう言った。
昔から、彼は過ぎるくらいに物分かりが良い男だった。
あの若い坊やの方だったら、なんだかんだと駄々をこねたに違いない。
二階でぐっすり眠ってくれていてよかった。

「……えと……ごめんなさい……グレさん」

彼女がおずおずと頭を下げる。
その下げた頭を、彼はくしゃっと撫でた。

「お前さんが、何を謝ることがあるんだ?マリア。謝らにゃならんのは、俺たちの方だ」
「そんなこと……!」
「ごめんな。お前に無理させる。……ありがとう」

低い声で優しく呟いた彼は、視線を上げると、こちらに少し申し訳なさそうな顔を向けた。

「お前にも、迷惑をかける。」

いまさら、だと思った。
此処に駆け込んできた段階で、山ほどの厄介事を抱えてきたのは確かなのに。
今更、そんな風に言うなんて、この男は心底ずるいと思う。

「良いわ。今更、そんなこと言わなくても。その子の改良はちゃんとしてあげるし」
「ああ、信頼してるぜ、アリウム」
「よ、よろしく、お願いします」

酷く緊張したように頭を下げた彼女を、奥の部屋に導く。

「こっちへ来てちょうだい。寝転がっているだけでいいわ」
「は、はい」
「悪いけれど、グレッグは少しリビングで待っていてちょうだい。狭いから、この部屋」
「ああ、気を付けてな」

しばらく使っていなかった、機材だらけの部屋。
研究所ほど設備は整ってはいないが、まあ、事足りるだろう。
政府にバレたら非常にまずいだろうが、もうどうでもいいことだ。
どうせ何事も、なるようにしかならないのだから。

「それじゃ、少し、おやすみなさい、マリア」

彼女の体に諸々の装置をつなぎ、優しく声を掛ける。
とにかく、目の前の問題に真摯に取り組む事。
それが、今の私に出来る、ただ一つの生存行動だ。


**************


「グレッグ」
ドアを開けて、グレッグを呼ぶ。
少し眉を寄せた彼がこちらへやってきた。
それを見、すうすうと寝息を立てる彼女に視線を落として、一つ息を吐く。
どうやら成功と見てよさそうだ。
やってきた彼もそれを察したのか、安心したように息を吐いた。

「……助かったよ、アリウム」
「まあ、成功したのは良かったわね」

彼の顔を見上げて、これ見よがしに顔をしかめ、緩みかけた空気を引き絞るように、慎重に言葉を吐く。

「……ただ、相手はあのエリカ博士よ。偏執的な天才。私程度の技術じゃ、すぐに対策を組み上げられる可能性があるわ」
「……ああ」
「……わかってるわね?今回の改良は、ごく一時的な……その場しのぎでしかない。……早く決めなさいよ」
「……ああ」

歯切れ悪く答えた彼の声を叩き落とすように、言い放った。

「……どれを失うのか、ね」

彼は複雑そうな顔で彼女を見つめた後、やはり複雑そうな顔でこちらを見た。

「……お前は、変わったな」

噛みしめるように吐かれた言葉に、思わず笑いが込み上げる。

「いいえ?何も変わってなんかいないわ」
「いや、変わったさ」

いつだろう、立場は真逆だが、他の誰かと、同じ会話をした気がする。
相手も、何も変わっちゃいないと答えた気がする。
ああ、と思い至った。
あの人だ。
いつまでも小さいままの、あの人。
結局、変わってしまったのはどちらだったのかわからず仕舞いだった。

部屋には重苦しい沈黙が垂れ込めていた。
目の前の彼が小さくため息を吐いた。

「何があったのか、なんて野暮なことは聞かねぇつもりだが……」

言いにくそうに語尾を濁した後、彼はしかし、はっきりと言い切った。

「お前、死んでるみたいだぞ」

意表を突かれて、思わず息をのむ。
彼の憐れむような視線に耐えきれず、俯く。
何があったのか。何があったのか?
そんなもの、数えきれないくらいあった。
長い事顔の一つも合わせなかったのだから、言いきれないくらい色々なことはあった。
でも、彼が指しているのは、きっと一つだ。
ずっと私の中にわだかまって残っている、あの、人を殺した記憶。

「…………人を、殺したのよ」

震える声でそういうと、彼は一つ息を吐いた。

「……お前が一時の感情で、人殺しするような奴じゃないのは知ってる。……不可抗力だったんだろ?」

不可抗力。なんて甘い響き。
それに甘えてしまえば、きっとまた何事もなかったかのように過ごせるのだろう。
でも、あれは不可抗力なんかじゃなかった。

「きっと武器でも向けられての正当防衛……」
「あの人の腕に、武器なんてなかったのよ」

彼の言葉を遮り、吐き捨てるように一つ呟くと、ずっと塞き止められていた感情が、ぽろぽろと零れた。

「あの人の腕に、武器なんてなかったのよ。全部、私に自分を殺させる為のハッタリ。
最低でしょ?あの人はいつだってそうだったのよ。
私の事なんか、他人の事なんか、自分の事なんかどうだっていいの。
自分の考えだけよ。あの人が守りたいものは。
自分の思考さえ正しいって思えれば、他は、何がどうなったって良いんだわ」

思考がまとまらない。
ただ、口から零れ落ちるままに言葉を吐いた。
俯いたまま、顔は上げられない。
きっと、ひどく無様な顔をしているのだろう。
彼は何も言わずに、私の頭をぽんぽん、と撫でた。
まるで子供をあやすような掌。
きっとあの坊ややお嬢ちゃんに、いつもしてやっているのだろう。
ああ、けれど、彼の頭は、誰が撫でてやれるのだろう。

彼にはきっと何一つ伝わらない話だろうに、いかにも感慨深そうに、彼は私の頭を撫でた。

「……すまなかった」

実に言いづらそうに、彼は言葉を吐いた。
何も、彼が謝る必要は無いのに。

「……良いのよ」

首を軽く振って、彼の手を払う。

「……貴方に気を使わせた私が悪いわ。なんでもない話なのにね」

そうだ、実になんでもない話。
少なくとも、彼に聞かせるような話ではなかった。
無関係な彼に覚られるほど、表に出してしまっていた私が悪い。
なんでもなく、本当になんでもなく、振る舞わなければいけなかったのに。

彼は何か言いたそうに一度口を動かした後、しかし何も言わずに口を閉じた。
彼は、聡い人間だと思う。
そしてきっと、ひどくやさしい人間なのだ。
そう言ったら、彼はきっと否定するだろうが。

「……グレッグ、貴方ももう休んでおいたら?ずっと逃げてたんでしょ?」
「……ああ、まあ、今くらいはな」

彼は少し複雑そうな顔をしたまま、二階への階段を上って行った。
私も、少ししたら休もう。
もう、すぐに、昔の自分に戻らなければ。
そう思うものの、何がずれてしまったのか、自分では少しも分からなかった。



*********

再び、彼が見た話


「なんで起こしてくんなかったんッスかぁあああ!!!」

起き抜けに告げられたニュースに、あらん限りの声で非難を叫んだ。
いや、ニュース自体は実に良い部類に入るのだが、
それが自分の知らないところで勝手に決まって進んでいた感じがどうしようもなく不本意極まりない。

「いや、ぐっすり寝てたからな」
「そう、ヨーくん疲れてたから」
「まあ、起きそうになかったものね」

口を揃えて言う彼らに二の句を告げなくなり、思わず妙な唸り声を上げた。
そりゃあ、すっごく気持ち良く寝てたッスけど!!
何が起こってるかなんて気付く暇もなく寝てたッスけど!!

「まあ、これでしばらくは上手く紛れて逃げられるんじゃないかしら。あくまで応急処置だけれどね」
「そりゃあ……万々歳ッスけど……」
「ヨーくん、これでゆっくりお休み出来るね」

嬉しそうに見上げて来たマリアの頭を軽く撫でると、マリアはくすぐったそうに笑った。
それで、まあいいか、とも思った。

「でもマリア!」

バッとしゃがみこんでマリアに視線を合わせる。
まん丸に見開かれた目と視線があう。

「今度はちゃんと、俺にも相談するッスよ!」

きりっとそう言いきると、マリアは少し笑って、でも力強く、

「はい!」

と答えた。

「……気はすんだかしら?」

呆れたような口調でアリウムが言葉を投げた。

「いい?何度も言うけど、あくまで応急処置よ。本当に政府の手から逃れたいなら、もっと……」
「アリウム博士って、なんだかんだ言ってすっげー優しいッスよね」

ふと思った事を口に出すと、アリウムの顔が一瞬で真っ赤になり、何かを言おうと口を何度か動かし、けれど何も言葉を吐かずに、その口は閉じられた。
そしてアリウムは気を取り直すように首を小さく横に振ると、至って平静な口調で、

「貴方、やっぱり馬鹿ね」

と、呟いた。

「グレッグの言うとおりだわ」
「え、グレッグさん何言ったんスか」
「俺は本当の事しか言わねぇさ」

どうにも不本意な形で流されたらしい俺の情報に声を上げると、グレッグさんがおどけた様に笑った。
アリウムも少しだけ表情を崩すと、小さく手を振った。

「それじゃ、そろそろ行ったら?」
「ああ、そうだな、いつまでもお前に迷惑をかけてもいられないしな」
「あら、自覚あったの?」

おどけた様に返された皮肉に、グレッグさんは少し困ったように咳払いした。
そして、グレッグさんはふと、アリウムの顔を眺めて、少しだけ苦しそうに眉を寄せた。

「アリウム」
「何?」

グレッグさんはアリウムの目を少し眺めた後に、言葉を選ぶように続けた。

「……あー……俺がこう言うのもなんだが……そいつは、自分の考えの答え合わせを、お前に頼ったんじゃねぇか」

俺には、“そいつ”が指す先も、グレッグさんがそう言った理由もさっぱり掴めなかったが、アリウムは一瞬大きく目を見開いたあと、小さく微笑んだ。

「……変わったわね、グレッグ」
「いや?何も変わらないが?」
「変わったわよ、馬鹿」

少し優しい声で告げられたそれに、グレッグさんは頭を掻くと、困ったように息を吐いた。

「いかんな、普段女に対する慰めなんて考え慣れてねぇからこうなるんだ」
「慣れてるグレッグさんも気持ち悪いッスけど」
「うるせぇ、ヨハネ坊主」

思ったことをそのまま言ったら、軽く頭を小突かれた。
グレッグさんはそのまま、それじゃあな、と呟いて歩き出した。
俺とマリアも、アリウムに短く礼を告げて、グレッグさんに続く。

「これから、どーするんスか?」

先をゆっくり歩くグレッグさんに、ふと声を投げる。

「さあな、精々、足が止まるまで、適当に歩くさ」

グレッグさんがゆるりと手を振った。
それを聞いてマリアが嬉しそうに。

「うん!」

と返事をした。